メイナは一階食堂に上がると食堂を目指した。しかし、覗いてみたそこには静かな竪琴の音が流れ、上品な食事の音と、さざめくような談笑が僅かに聞こえるばかり。テラスに面した扉は一面開放され、繊細なレースのカーテンを風が揺らしている。壁面に並べられた燭台と、中央の大きなシャンデリアに灯された『鍵』による灯りは、食堂を煌々と照らしていた。
――しまった……。
内心でメイナは盛大に溜息をついた。
立っているのは給仕の者ばかり。着飾っているとは言い難いとしても、とても上等な服を着た客達は優雅に晩餐の真っ最中である。しかもその人数は四、五人で、宿泊客のうちの一組であることが伺われる。
寝惚けて失念していたが、メイナたちも同様に夕食をとったのだ。
どうやら時間を区切って一組ごとに晩餐を饗しているらしく、客の中では到着の早かったメイナらは早めの時間を組まれた。だから到着早々の夕食になったのだ。後々まで待たされるよりは良いか、とアルガレイスが言ったのを覚えている。
中央の食卓を囲んで、四人だけで夕食をとる。隣には女給が控え、巨大な食卓に並べられた豪勢な品々から、欲しい物を選んでその女給に取り分けてもらわなければならないのだ。アルガレイスらと歩いて一ヶ月。毎回このような事態には陥らないにしろ、何度経験しても慣れることが出来ない食事形式である。
普通ならば付き人のトキアやオマケの一般人であるメイナなどは、別室でもう少し気楽な食事をさせてもらえても良さそうなものだが、主二人にその気はないらしい。メイナを、というよりもトキアをどこまでも同等に扱おうとする二人の姿は、何となくメイナも好感を持っていた。
――だけど絶対、この手の食事って私未経験なんだよね。もっと一般人なんだ、きっと。
そう確信しているメイナである。たまにやむなく入る普通の居酒屋兼宿屋の騒がしい食堂の、なんと居心地の良いことか。
とりあえず何にしろ、ここからのこのこと入っていって、「すみませーん、お水一杯ください」などといえる雰囲気ではない。調理場は食堂の奥らしく、廊下伝いに行けそうにはなかった。宿泊客が立ち寄るような場所ではないのだろう。
風通し良く開かれた、食堂の扉の影で一つ嘆息し、その向こうの煌びやかな灯りにメイナは背を向ける。これはもう、外の水汲み場に行くしかあるまい。廊下の窓から差し込む蒼い月明かりに頷き、メイナは外へと歩き出した。
外に出ると中天に、半月よりは少し太り、不恰好に腹を出した月が白く浮んでいた。
備え付けの桶に水を汲み、柄杓を使って水を飲む。ついでに持って出ていた水筒にも水を詰めて、また喉が渇いた時に飲もうと頷いた。
「顔も洗っちゃおうか……」
拭くものを持ってで忘れたが、ポケットを探ればハンカチが出てくる。まあ、これでいいだろう。そう判断してメイナは桶を覗き込んだ。
月明かりを反射する水面が、メイナの形に陰る。かすかな光に目を凝らせば、自分の顔がうっすらと映っていた。
夢の中の自分は、多分こんな顔をしていない。
何故か、そんな確信があった。
夢の中の自分の姿を第三者の目で見る事は出来ないが、視界の端に映る手足が、自分の物とは違う気がする。あれは一体誰なのだろうか。
そして誰なのか分からないのは、血塗れて地に伏す男性も同じ。顔は伏せられ、髪に隠れて見えない。年頃は三十路を超えた辺りだろうか。はっきりと年齢が分かるような体勢ではなかったが、少なくとも老いの兆しは見えない手足だった。その色は、蒼白だったけれども。
その手足から抜け出た血は、彼の周囲と夢の中の自分を赤黒く彩っていた。
そこまで思い出して、メイナはぶるりと肩を震わせる。恐ろしい、恐ろしい、赤い色彩。血の苦手な自分が見る夢としては最悪すぎる。現実に見ればほんの少しでも眩暈を起こしそうな代物を、何が悲しくて夢であんなに大量に見せ付けられなければならないのか。
桶から水を手で掬い、ぱしゃりと顔に打ち付ける。
水面が乱れて、映る月光が乱舞した。
しかし逆に、あの夢はもしかしたら自分と関わりがあるもので、だから自分は血が嫌いなのかもしれない。そうも思える。この一ヶ月、繰り返し繰り返し見た夢は、一体自分の何を暗示していると言うのか。
「……ろくなものじゃないよね、絶対」
暗澹たる思いに駆られる。傀儡に対する恐怖とこの夢のおかげで、正直、メイナは過去を知りたいとは思わないのだ。絶対に、ロクなものではないだろうから。
恐らくあれは、メイナ自身ではない。なぜなら、夢の中のメイナは現実のメイナよりも年上だろうと思われるからだ。伸びた手足の長さや白い胸のまろみは、成熟しきった女性のもの。十七歳と言うアルガレイスよりも遥かに劣る、貧相なメイナの肢体はまだまだ発展途上のものだ。多分、十五、六歳なのだろう。これでアルガレイスよりも年上だったらそれもまたショックだ。
悩みは尽きない。二度、三度と冷たい水を顔に打ち、ごそごそとハンカチを取り出してメイナはまた、溜息をついた。
唯一つ、何故か分かっている事がある。
それは、とてもとても大切な記憶で、それを思い出すとメイナの胸は熱くなる。しかしそれは、『記憶』と呼ぶには断片過ぎて、「憶えている」というにはあまりにお粗末な物だ。
夢の中のメイナが絶対者と呼ぶ、血に塗れた男。その眼は天空の蒼なのだ。
どこまでも透き通る蒼。強さよりも優しさを溶かしたその眼差し。
メイナはそれが、何よりも大好きだった。
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