濡れた顔にハンカチを当てながら、メイナがぼんやりと月を見上げていると、背後から足音が近づいてきた。
振り返るとそこには、見知った秀麗な顔があった。クレイドだ。手元には灯りと、何か布を持っている。
「クレイド……?」
まさか会うと思っていなかった相手の名を、メイナは驚きつつ呼んだ。
「メイナか。どうした」
メイナの隣に並んだクレイドが、灯りと布を傍の台の上に置いて桶を手に取りながら尋ねた。
「あ、私は喉渇いたから……クレイドは?」
そう問い返しながらクレイドが置いた布を見遣る。
「昼間汚れた服を洗おうと思ってな」
汚れるようなことなどあっただろうか、と最初首を傾げたメイナは、すぐに昼間の戦いに思い当たって眉根を寄せた。
「あ……」
メイナのせいで、今回はとうとうクレイドに怪我を負わせてしまったのだ。今まで迷惑をかけるだけで済んでいたのが奇跡的なのかもしれないが。
「その……ごめんなさい」
うつむきがちに謝る。回復が出来たから、と安堵していたが、考えてみれば服は破け、血で汚れたのだ。その後始末までは考えていなかった。
「わ、私が洗うよ。もともと私が転んだからだし……」
自分のせいなのだから、と手を差し出したメイナを、じっと見ていたクレイドはゆっくりと、僅かに首を傾げて言った。
「気に病む必要はない。傀儡が恐ろしいのは、ごくごく当たり前の事だ。足が竦んだくらいで責任を感じる事はない……」
色素の薄い眼が僅かに細まる。目線二つ分くらい上のそれに、メイナは見入った。綺麗……という表現が男性相手に適切か否かはわからないが、とても格好良い。太陽の下では蒼天色に輝く眼がメイナのそれを覗き込む。
「苦手なんだろう、血が。無理はしなくてもいい。元々戦う必要のある人間じゃないお前が、傀儡相手に竦むのは当然だ。戦士である俺達が守らなければならない。この傷は、ただ俺が未熟だったから出来ただけの事だろう。お前が気に病む必要はない」
気付いてくれていた。メイナは丸い目をさらに見開く。
気を抜く事が出来ない戦いの間、クレイドはメイナが傀儡に足を竦ませ、血に怯えている事にしっかりと気付いていたのだ。気にかけてもらっているという事に対する喜びで、僅かに心が浮き立つ。それは、彼にとって戦士として当然の義務なだけなのだろうけれど。
「う、ん、ありがとう。ホントに今まで、何もかも……。私、クレイドに見つけてもらえなかったら……」
死んでいたかもしれない。そう苦笑する。それは大げさでも何でもなく、これまでの一月で得た実感だった。
「まだ、あと三日ある。そういう話はシュルホトに着いてからでもいいだろう?」
くすり、と笑ってクレイドが目を細めた。そのまま視線はメイナを離れ、クレイドは桶を手にして水を汲み始める。もうちょっと見ていたかった、と心で呟いて、メイナは少し赤くなった。
――ばか、意識してどうするの……!
そっと気遣ってくれる優しさや、その戦う時の力強さ、しなやかな美しさに自分が惹かれている事は知っている。ついつい目で追っているのだから仕方がない。彼の隣にはアルガレイスが常に在り、そうでなくても後三日で別れる、付いていくことも出来ない身分違いなことも承知している。だから、何となく目で追ってしまっても、気遣ってくれるたびに嬉しくても、『意識』しないように心がけてきたのだ。
それを後三日のところでしくじってどうするのか。
そんな事を考えながらも、メイナは何となくその場を離れるのが惜しくて、洗い場で破れた服を洗うクレイドをじっと見つめていた。
今二人を照らしているのは儚い月光と、鍵の灯りの青白い光だけである。視界に色彩はなく、メイナの目に映るクレイドもまた、藍色のモノトーンの中に沈んでいた。その横顔、服に視線を落とす眼を見つめ、メイナはその本来の色を思い出すように目を細める。
その色は、自分の記憶の欠片に残るものと全く同じ、天空の蒼。
森の中で目覚め、初めてそれを見た瞬間に、既にメイナはその色に捕えられていた。
ただ少し違うのは、優しさよりも意志の強さが濃く滲み出ているということくらいだろうか。
偶然なのか、そうではないのかも分からない。記憶が断片的すぎて、クレイドに何か尋ねる事も出来ずにここまで来てしまった。こんな風に、二人だけになることがほとんどなかったからも、あるかもしれない。
思い出すだけでじわりと胸が熱くなる天空の眼を思い出しながら、メイナはそっと口を開いた。
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