その炎がムラを襲ってきた時、確かに僕達の世界は終わったのだ。
『クナ、これを持って山を降りなさい』
煙と雲に映る炎の色で、夜空が紅く染まったその晩、僕はムラの長様に呼び出された。ムラを護る精霊の樹の下に、煤けた長衣をまとった老人が立っている。
『長様っ!?』
混乱する里の中を走ってきたため、汗ばんでいる僕の腕を深い皺の刻まれた手がとり、手のひらの上にずっしりと重い皮袋を置く。炎に照らされたその顔は悲痛な陰影を刻み、これが今生の別れであることを僕に教えていた。
『私たちの一族も、これで終わりだ。お前ならば、野の暮らしに溶け込むこともできよう。野の里の言葉を使い、野の里の人間として生きなさい。そのためのものが、その中に入っている』
他の大人たちと見回りに出たはずの父親でも、火の付いた家に取り残された人々を助け出そうとしている友人達でもなく、自分だけが呼ばれた意味を理解する。
『終わりって、そんな……だってみんな頑張ってるじゃないですか……!』
皮袋に続いて渡される簡単な旅荷物を押し返しながら僕は必死に言った。だが、長様は無情に首を振る。
『嵐の時期が過ぎればじき冬が来る。暖を取る家すらないまま越えられるものでもないだろう。それに、逃げ延びようにもこれより奥は危険が過ぎる。……クナよ、私たち一族の生きる場所は此処を置いてもはや他にはなかったのだ』
今皆が必死に行っていることを無駄と断じる言葉に絶句する。冗談じゃない、と反論しかけて、言葉に詰まった。誰より賢明で、里の皆を愛していた長様が生半可な事でそんな諦めを口にするはずがないのだ。立ち尽くす僕の肩を、背後から大きな手が軽く叩いた。
『父さま……』
振り返ると、厳しく、どこか悲しそうな顔をした父が立っていた。
『行け。そして生きろ。お前はサトコの子でもある。きっと野でも生きていけるだろう』
『このムラの事を他人に話す時は気をつけなさい。むやみにムラの言葉を使わないようにな。サトコがお前に教えた、野の言葉を話すようにしなさい』
これが最後の助言だ、と言った長様が野へと向かう道を指した。促されるままに一歩そちらへ踏み出した僕の頭を、父が軽く撫でる。
『我らの事を忘れろとは言わん。だが、恨みの道を歩んではならない。生きるのだ、沢のムラの男として恥じぬよう立派にな。そして……幸せに、なれ』
優しく響く低く、深い声。それは普段無口な父の、覚えている限りで一番長い言葉だった。
その日ニュースでは、中央アルプスにおける山火事が大きく報じられた。
その原因と言うのが、行方不明者捜索の為に山狩りをしていた消防団による火の不始末というのだから締まらない話である。また、その山狩りには警察も同行していたため責任追及はそちらにも及び、山火事自体の被害よりもそちらのスキャンダルの方でこの事件は注目されたのだった。
「……そして、『彼ら』に関する記述は一切なし、か。まあ当然と言えば当然だけどね。上が全部情報を押さえたんだから」
ネットのニュースから全ての新聞、テレビなど、全ての報道に目を通していたその青年は、少し疲れたように肩を回しながら言った。隣で同じ作業をしていた、同僚らしき男がそれにこたえる。
「そうさな。まるで彼らの存在を揉み消してるようでいい気分はしないが……この事態ごと世間に知れたら更に厄介だ。いるんだろ、生き残りの子が」
その言葉に、青年は僅かに表情を曇らせた。
頭上の時計はすでに深夜の三時を指しており、耳に入る音といえばパソコンの低い稼動音と、その隙間から漏れ聞こえる秒針と空調の音くらいである。幾つもの蛍光灯が皓々と彼らの居る雑然としたオフィスを照らしているが、窓の外は暗闇に沈んでいた。視界の下の方に、仄暗く街路灯の灯りが見える他は、隣接するオフィスビルにもほとんど光が見えない。
「報告にはそうあったけどね。ただ……行方が分からなくなってるようだ。突発的な事でかなり混乱したからな。あんな山深い場所からたった一人を見つけ出すのは厳しいだろう」
空のマグカップを片手にデスクを離れた青年は、資料の山を掻き分けるようにして部屋の片隅にある、コーヒーメーカーの前まで辿り着いた。一体いつからそこで保温されているのかも分からないような黒い液体をマグカップに注ぎ、億劫そうにミルクポーションを入れてかき混ぜる。
「要るかい?」
そう尋ねられた男は嫌そうに眉をしかめて言った。
「遠慮しとくよ。俺はそんな液体、嗜好飲料とは認めたくないんでね」
コーヒー派として知られる男の言葉に、青年は軽く笑う。
「僕もその点は同感かな。ま、カフェイン溶液としての機能は果たすさ。僕はコーヒーにこだわりは無い紅茶派だから」
言いながらその『カフェイン・植物性油脂懸濁液』に口をつけた青年に軽く肩を竦め、男は手元の書類に視線を落とした。
「……この件、俺が担当することになりそうだが……前途は多難そうだな」
男の呟きに、懸濁液を飲み干した青年は頷き、言った。
「出来ることがあれば手伝うよ。こちらは当分ヒマそうだからね。
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